「いつかはギブソン」は、もうない。良くも悪くもブランドは変わる。
特別なブランド、「ギブソン」。
趣味のギター弾きの端くれとして、「ギブソン」というギターメーカーは特別だった。
「ギブソン」が西の横綱なら東には「フェンダー」も君臨しているが、
キッスやマイケルシェンカーを聴いてギターを持った自分としてはストラトキャスターには目もくれず、
図太いディストーションサウンドが出るレスポールを迷わず購入した。
数十年経った今でもそのギターはいい音がすると自分では思っているが、
残念ながらこれはレスポールじゃない。
レスポールの名を語れるのは本家「ギブソン」の作ったギターだけであり、
自分の持っているのは日本の東海楽器が作った「レスポールモデル」、つまりギブソンコピーである。
本家のレスポールが欲しくないギター弾きなどいないが、
もちろん非常に高価なため高校生ごときが手にできるシロモノではなかった。
みんな、日本製のコピーモデルを持ってバンドに熱中していたのだ。
大企業になった「ギブソン」。
現在、その本家ギブソンには様々なラインナップがある。
数千万するビンテージ(普通には売ってないけど)から数万円の廉価版まであり、
当時の高校生がみたら狂喜するに違いない。
なんてったって、自分の買えそうな金額で「ギブソン」のギターが買えるのだ。
たとえ中身は中国製だったとしても。
メーカーとして、そうやって学生にも買えるギターをラインナップしていくことはいいことなんだけれど、
安いギターで練習して、バイトして金を貯め、「いつかはギブソンを持つ」という夢はなくなってしまったかもしれない。
ギブソンを持つということは、楽器としても妥協のない作りをしている本物を持つことを意味したから、
楽器としてそもそもどうなのかという疑いを微塵も与えちゃいけない。
でも中国製のギブソンなど、とてもまともな作りをしているとは思えない。
中国製をバカにしているわけじゃないよ。
値段を考えれば本来のギブソンそのままの作り込みであるわけがない。
同じような価格帯なら、まじめに作っている日本製のコピーモデルのほうが材も工作精度も上だろう。
それでも「ギブソン」の名を冠していれば売れるのだ。
このようなメーカーの姿勢を見てしまうと、特別なブランドであったものがただの量産工場に見えてくる。
クラフトマンシップが企業を貫いているように見えないと。
ギターは木工製品だから、クラフトマンシップがそこになければIKEAの椅子となんら変わりない。
ギブソンにはそういったクラフトマンシップを売りにするラインナップがあるが、これはとてつもなく高い。
それが魂の入った楽器として当たり前の姿であるのに、特別なものとしてラインナップしてしまうことにとても違和感を感じる。
最近、国産ハイエンドギターが注目されている。
ギター制作者が独立して工房を持ち、楽器として自分が納得するものを作っているのだ。
もちろん安くない。
しかし、「ギブソン」のクラフトマンシップを売りにしたものよりは安い。
いや、「ギブソン」が無駄に高いだけなのだろう。
「ギブソン」の名が持つ魔力に匹敵するものはないが、
50年後の名器を作ろうと研鑽を重ねている。
これは、本来「ギブソン」もそうであったろうという姿だと思う。
次にギターを買うなら、こういう人たちの作った、
魂の入ったギターを買いたい。
だからといって本家レスポールに興味ないわけじゃないんだけどね。
高嶺の花は、変質することなくそのままでいてほしい。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
デザインを戦略にして、もっといい会社になろう。